高校国語教科書に中央大学理工学部教授・加賀野井秀一の作品「あいまいな日本人?」が掲載されました。
加賀野井秀一(哲学者・仏語仏文学者・言語学者、中央大学理工学部教授)の作品「あいまいな日本人?」(出典:『日本語の復権』講談社現代新書、1999年)が、次の高等学校国語科教科書に掲載されましたのでご紹介いたします。
・『高等学校 改訂版 新編国語総合』第一学習社(平成19年度~)
・『新国語総合 改訂版』教育出版(平成19年度~)
・『新国語総合』教育出版(平成15年度~平成18年度)
※2007年6月29日、株式会社講談社からwebへの転載許諾をいただきました。高校国語教科書に掲載された全文をご紹介いたします。
------------------------------------
あいまいな日本人?
加賀野井秀一
ttt
私がパリの知人たちとおしゃべりをする際、彼らからの質問で、よく「あなたの生まれた高知というのは、東京からどのくらいの距離のところにあるのか」とか、「その高知にはどれくらいの人が住んでいるのか」とか、具体的な数値をたずねられることが多いが、これは私たち日本人がもっとも苦手とする質問なのではあるまいか。
私たちは、自国ではほとんどの場合、「かなり」とか「けっこう多くの」といった表現で間に合わせているのだが、それはそういった大ざっぱな表現に対する「暗黙の了解」を共有しているからである。「古池や蛙とびこむ水の音」という一句を聞いても、この池が一〇〇メートル四方もありはしないことや、巨大な蛙が何匹もとびこむわけではないことが、私たちには当然のように了解されているわけだ。
なるほど、東京での「けっこう広い宅地」が五〇坪であったりすることは、ビバリーヒルズの住人には予測しようもあるまいし、「かなりの混雑」が東京のラッシュ時の殺人的な電車のものであることなど、サハラの遊牧民にとっては想像を絶してもいるだろう。したがって、人種の坩堝であるパリでは、数値にたよるしかないのが当然であるということとともに、逆にまた、日本がいかに横並びの均質な社会となり、ビバリーヒルズをもサハラをも想像しえない所となってしまっているかということにも、私たちは気づかねばなるまい。つまり私たちは、多くの場合、仲間内で理解しあうたぐいの言葉しか持ちあわせていないため、外部の人々に対するあいまいさをかもし出しているのである。
あるいはまた、もうひとつには、こういうこともあるのではいないか。それは、皆さんもしばしば経験されるにちがいないし、テストの落とし穴としても頻繁に用いられている否定疑問文への答えが、欧米と日本とではまったく逆になるという事実に見られるようなことである。つまり「これこれのこと、ご存じないのですか」と聞かれて、日本語では「ええ、知りません」あるいは「いいえ、知っています」とこたえるべきところ、欧米では、「ノー、知りません」「イエス、知っています」になるという、あれである。
結局のところ、日本語は、質問者の質問のしかたに即し、その意図にそっていれば「ええ」とこたえ、反していれば「いいえ」とこたえるわけだが、欧米では、肯定疑問であろうが否定疑問であろうがそんなことにはおかまいなく、返答する者が知っているか否かによってのみイエス・ノーが決められている。こうしてわが同胞は、外国に行って否定疑問文を浴びせかけられるたびに、どぎまぎしながら「はい、いやちがった、いいえ」「いいえ、いや、はい」などとやって、ますます「あいまいな日本人」という神話をはびこらせてしまいもするのだろう。
このような否定疑問へのこたえ方にかいま見られるのは、自己中心的な欧米流の思考法と、外部指向的なわが国の思考法とのちがいにほかならない。そのうえ、そもそも私たちは、きっぱりとは「ノーと言えぬ」やさしき日本人なのである。つまり、私たちのあいまいさは、多分に、他人への配慮からも生じているわけだ。
こうした他人への配慮は、多かれ少なかれ、自己を抑制することになるだろうし、他人と歩調を合わせようとすることにもなるだろう。私たち旧世代がつねに指摘されてきた日本的集団主義はもとより、はた目には、かなり自己チュー(自己中心的)と見られる現代の若者たちまでが、学校や職場での友人関係にどれほど気をつかっているかは、見ていて涙ぐましいほどである。「はい、はい、はい、はい」と「はい」をいくつも続けてコミカルかつ同調的な司会者のノリを出してみたり、「やっぱし」「ヤッパ」「あんまり」「意外と」を連発して社会通念にこびてみたり、「半疑問」「半クエスチョン」と呼ばれる文の途中での語尾のアゲを使うことで相手との一致をたえず確認してみたり、あげくの果てには、携帯電話を通してまでもこうした気づかいをくりかえし、彼らはようやく、「だれかとつながっている」という安心感を得るにいたるらしいのだ。
このように、私の見るところ、日本語におけるあいまいさと言われるものは、大別すれば、「暗黙の了解」と「他人への配慮」という二つのものに由来しているように思われる。「暗黙の了解」はまさしく了解されている以上、それを言葉にしないのは当然のことであって、それがあいまいと映るのは外部の目に対してだけである。あるいはまた、「他人への配慮」によって物言いを微妙に変えるところなど、自己主張ばかりに終始する西洋風の言葉づかいよりも数段すぐれていると考えることもできる。したがって、日本語における「あいまいさ」なるものは、まずは、本来の意味においてはあいまいではないのだと、そういうこともできるだろう。
しかしながら、この「暗黙の了解」や「他人への配慮」が、日本語の内部においても次第に崩れてきているとすればどうだろう。暗黙の了解があってこそあいまいさをまぬがれていた私たちも、そうはいかなくなり、他人への配慮があってこそあいまいも美徳になっていたのが、一転して、単なるあいまいとしての悪徳になってしまうのでないだろうか。
たとえば、あるスーパーマーケットで年配の婦人が、若い女店員にこうたずねた。
「あのう、お嬢さん、このお豆腐ずいぶんにごりが出ているけれど、まさかヨイゴシ(宵越し)のお豆腐じゃないでしょうね」
けげんな顔をした女店員は、こう応じたのである。
「いえ、お客様、当店では<絹ごし>と<木綿ごし>しか置いておりません」
思わず私はふき出してしまった。二重の意味においてである。ひとむかし前ならば、この答えは当意即妙の見事なものであったにちがいない。当店の商品には「宵越し」などという言葉はないと、ナポレオンのように自信たっぷりの答えとなったはずである。しかしながら、当の女店員さんは大まじめ。「宵越し」はあたかも日本語ではないかのように遇されているのだ。ご婦人の苦笑に一抹の淋しさを感じたのは、私の深読みにすぎなかったのだろうか。
ことほどさように、たかだか一、二世代の間でも、暗黙の了解は急速に失われつつある。学校教育の問題はまた別に論じるとして、ここ数十年の目まぐるしい日常生活の変化を考えてみるだけでも、それは簡単にうなずけることだろう。浴衣がけにうちわを持って縁側で夕涼み、などという情景は、すでに東京の子供たちにとっては異国のものにひとしく、浴衣も縁側も、言葉としてさえ知らない場合が多いのには驚かされてしまう。
こうした「暗黙の了解」が失われたところでは、「他人への配慮」も従来のようには通じなくなってくる。京都神話で有名な「そろそろお引き取りください」の代わりの「お茶漬けでもどうどすか」など、まったく理解されなくなり、他人への配慮をする人間が一方的にバカをみるようになれば、やがてギスギスした社会がやってくるのは必定だ。他方では、それまで他人への緊張した気配りと自己抑制との上に成り立っていたあいまいな物言いが、すっかり形骸化してしまい、ただただ怠惰な思考への言い訳としてのみ残って、やがては大勢迎合的な人間を濫造することにもなりかねまい。
結局のところ、ここで私たちが問題にしなければならないのは、「暗黙の了解」があってこそまぬがれてきていた本来の意味でのあいまいさが、今や、その了解が失われることによって現実のものとなってきていること、そしてまた、かつては美徳であったあいまいさが、やはり社会の変動とともにすっかり悪徳に転じてしまっているのではないかということである。
------------------------------------
出典:『日本語の復権』(講談社現代新書1459、1999年7月20日発行) 12-17ページ
著者及び株式会社講談社からウェブへの転載許諾を得ております。禁無断転載。